神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 伊久波神社 |
式内社伊久波神社(いくはのじんじゃ)は、稲沢市平和町に鎮座する「伊久波神社」に比定されているが、この地は古くは海部郡ではなく中島郡に属していたので、異説もある。 「いくは」は、「的」の古い読み方で、それが祭神の「的臣(いくはのおみ)」の由来となっている。 |
【所在】 |
伊久波神社は、稲沢市平和町下三宅字郷内419に鎮座する。 古くは、「中島郡三宅村生桑」であった。 三宅村は、東は三宅川が南流し、民家は三宅川沿いにあって、西方に耕地が多い。 この地は、その名の通り「屯倉」があったところとして知られている。 平和町は、東に三宅川を境にして稲沢市・海部郡佐織町に向かい、南は領内川を境して佐織町に接し、西は日光川を隔てて祖父江町と佐織町に対する。 町の西端近くを国道155号(旧巡見街道)が通る。 なを、「角川日本地名大辞典23」によると、「平和村」と名付けられた由来は、合併の際に新しい村の名称で紛糾したため、当時の県知事が平和にやってほしいと命名したそうだ。 |
【祭神】 |
祭神は、「的臣」とあるが、的臣の先祖に、葛城襲津彦命がいるそうで、葛城襲津彦命を祀ると説など、異説もある。 いずれにせよ、神社名の「いくは」は「的」で、的臣もしくはその先祖を祀っていることになっている。 的臣については、日本書紀の仁徳天皇の条に、下記のようにある(宇治谷孟現代語訳版)。 「十二年秋七月三日、高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った。八月十日、高麗の客を朝廷でもてなされた。この日、群臣百寮を集めて、高麗の奉った鉄の盾・的を試した。多くの人が的を射通すことができなかった。ただ的臣の先祖の盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の的を射通した。高麗の客たちは、その弓射る力のすぐれたのを見て、共に起って拝礼した。翌日盾人宿禰をほめて、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)と名を賜わった。同日小迫瀬造(おはつせのみやつこ)の先祖、宿禰臣(すくねのおみ)に名を賜わって賢遺臣(さかのこりのおみ)といった。」 |
【由緒】 |
創建の時代は不詳のようだ。 江戸時代には、生桑神明、生桑明神と称した。 |
【社殿】 |
社殿は、東南東向きに建ち、拝殿・渡廊・幣殿・本殿と続く。 |
本殿は、神明造り。 |
ここでも、屋根瓦などに神紋は見られなかった。 |
【参拝記】 |
2013年11月13日のサイクリングでの式内社巡りの最後に、伊久波神社を訪れた。 三宅川沿いに神社はあった。 お隣の「長福寺」が大きくて、伊久波神社は境内もそんなに広くないので小さく感じる。 由緒書の掲示はなかったので、創祀などについてはわからなかった。 式内社調査報告では、熊野社と天神社が境内にあるとの記載があるが見つけることができなかった。 この日の神社巡りはここまでで、名鉄津島線の線路脇を走って名古屋まで帰った。 |